L’Arc~en~Ciel(ラルクアンシエル)

【L'Arc〜en〜Ciel活動の全てが分かる!】今現在から過去のラルクヒストリーまとめ!活動の歴史と歩み…結成から全盛期そしてメンバー脱退と新メンバー加入と活動休止から活動再開色々あった1991年結成から2024年までの30年以上の活動をまとめてみた!

2024年2月10日

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家電凡人
家電凡人
どうも僕です☆今回はL'Arc〜en〜Cielの活動の歴史についてです!
へぇ~それは気になりますね。L'Arc〜en〜Cielも活動歴長いですもんね。
視聴者
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L'ArcenCielラルク アン シエル)とは?


4人組ロックバンド。通称・略称は「ラルク」。バンド名はtetsuyaが名づけ、フランス語で「虹」を表している

現在のメンバーはhyde(Vo.)、tetsuya(Ba.)、ken(Gt.)、yukihiro(Dr.)

過去にはhiro(Gt.)、pero(Dr.)、sakura(Dr.)がメンバーとして参加していた。

1991年  L'Arc~en~Ciel 結成


1990年頃に、大阪の有名レコード店「ワルツ堂」でアルバイトをしていたtetsuyaは、バンドを組むためにメンバー探しを行っていた。

この当時tetsuyaはバンドメンバーを探すため、多くのミュージシャン志望の人とセッションしていた。その中には当時Luis-Maryのボーカリストとして高い知名度を持ち、

後にT.M.Revolutionとしても活動を始める、西川貴教(当時は"灰猫"名義で主に活動)もいたという。

 

メンバー探しをしている中、アルバイト先で当時大阪のシーンで有名だったバンド、「BILLY & THE SLUTS」のボーカルSAMMYと知り合う。

そして、SAMMYから「いいギターがいる」と、L'Arc〜en〜Ciel結成メンバーとなるhiroを紹介された。その後hiroと2人でバンドを結成する方向で動いていたが、形にならず終わってしまう。

このあともメンバーを探すため、ライブハウスに頻繁に訪れていたtetsuyaは、とあるギタリストに「今度スタジオで音を出そうと思ってる、ちょうどベースがいないから合わせてみる?」と誘われ、

そのセッションに参加することにした。そこで、L'Arc〜en〜Cielの結成メンバーとなるhydeperoに出会った。

 

一方、hydeもtetsuyaと同様にバンドを組むために大阪でメンバー探しを行っていた。

そしてKiddy Bombsというバンドと知り合い、同バンドのドラマー、peroと交流を持つように。

その後、Kiddy Bombsがボーカル脱退に伴い解散状態となり、peroはhydeに「一緒にバンドやろう」と声をかける。こうしてhydeとpero、さらにKiddy Bombsのギタリストとベーシストを加えた4人は、

新たなバンド、Jelsarem's Rodを結成。そして結成してすぐに、ベーシスト以外の3人はtetsuyaも参加したセッションに赴いたという。

上記のセッションを振り返り、tetsuyaは2010年に発表された書籍のインタビューで「課題曲を決めておいて、セッションで何曲か合わせて…お互いに様子見ですよね、お見合いみたいな。

peroとhydeは一緒にバンドをやってて、僕は僕で、別のところで、hiroとふたりでメンバーを探してたんですよ」とコメントしている。

また、hydeは2012年に発表した自叙伝で「当時はJelsarem's Rodを作ったばかりだったから、他のバンドには興味が持てなくて。peroが"行こうよ"って言うから行ったけど、

ひと通り演奏して帰ったっていう感じだったね。まあ、"上手だな〜""うちのバンドとは全然違うな〜"とは思ったけど」と語っている。

そして、このセッションでhydeとperoと出会ったtetsuyaは、L'Arc〜en〜Ciel結成に向け、大きな一歩を踏み出すことに。

hydeはこの当時のtetsuyaの熱烈な勧誘を振り返り、「セッションの時にtetsuyaは俺らに目をつけてたみたいで。それから、毎回、俺らのバンドのライブに来てくれるようになって、

打ち上げにも来たし電話もあったんだけど、"どう?バンド、調子ええ?"って聞くから"うん、調子ええよ"って言うと、"そっか"って残念そうにしてたな(笑)」と話している。

peroはtetsuyaの誘いに乗り気だったようで、tetsuya曰く「"hydeがOKしたら俺はいつでも行くよ"的なことを言ってた」という。

止めどないラブコールを受け続けたhydeは、Jelsarem's Rodの先行きが見えなかったこともあり、tetsuyaと一度セッションすることを決意。

そして1991年2月頃、hyde、tetsuya、peroに、tetsuyaと共にバンドメンバーを探していたhiroを加えた4人で、兵庫県西宮北口駅のスタジオでセッションを行い

このセッションでhydeは「やっぱり自分たちのバンドとは全然クオリティーが違う」と感じ、Jelsarem's Rodを解散させ、新たなるバンドを結成することを決断。

そして、hyde(結成当時のアーティスト名義は"hide")(Vo.)、hiro (Gt.)、tetsuya(結成当時のアーティスト名義は"tetsu")(Ba.)、pero (Dr.)4人でL'Arc〜en〜Cielが結成された。

L‘Arc~en~Cielのバンド名の由来とは?


L‘Arc~en~Cielというバンド名はtetsuyaが名づけた。

tetsuyaが当時本屋などをまわり、様々な資料をもとにバンド名に適した言葉を探していたときに、たまたま見つけた言葉だったという。

この言葉を見つけた経緯について、tetsuyaは2011年に受けた音楽雑誌のインタビューで「本屋さんとかでいろんな資料を見たんですが、その中にこのフランス語の言葉があった。

意味は“虹”ですけど、分割すると“天空にかかる橋”。見た目もいいし、響きもいい。音楽でいろんな色を表現するというところでも合うなと。

長くて、覚えにくいものではあるけれど、ローマ字で表記したときにインパクトがあると思ったんです」「(この言葉には)洋服のブランドみたいな雰囲気もあって、いいかなって」と語っている。

1995年2月1日にはバンドの公式ファンクラブ「Ciel」が設立されたが、それから約5年後の2000年4月21日に、公式ファンクラブの名称が「LE-CIEL」に変更された。

公式ファンクラブの名称は、フランス語で「空」という意味を持つ『ciel』が由来となっており、「ファンとバンドが"空"と"虹"のような関係でいれたら」という想いが込められている。

L‘Arc~en~Cielのバンド結成直後の活動方針と戦略

結成後、同年5月30日に難波ロケッツで記念すべきファーストライブを開催。このライブは対バン形式だったが、100人以上の動員を記録。

そして、1991年9月27日に同所でL'Arc〜en〜Cielとして初のワンマンライブを行い、300人以上の観客を集めている。

L'Arc〜en〜Cielは、結成して間もなくバンドが軌道に乗り、大阪を中心に様々な活動を展開していく。

L'Arc〜en〜Cielが結成当初から一定の人気を獲得できていたのは、hyde曰く、hiroが以前組んでいたバンドで名前を知られていたことや、

tetsuyaの考えたプロモーション・イメージ戦略によるところが大きいという。

結成当時のL'Arc〜en〜Cielの活動を振り返り、hydeは2012年に発表した自叙伝で「面白かったのは、L'Arc〜en〜Cielはとても戦略的で、tetsuyaはもう既に大勢の人の名簿を持っていて

それを元にダイレクトメールを送ったり、ギターのhiroは、元々ちょっと名前の知れた子だったからその子が復活するってだけでも話題になった」と綴っている。

また、tetsuyaは「今だと個人情報保護とかでダメだと思うんですけど、当時僕がアルバイトしていたレコード店にあるお客さんのリストを使って、

ライヴ開催のダイレクトメールを送ったりしてましたね」と当時を振り返っている。

 

その後L'Arc〜en〜Cielは、当時のアマチュアバンドが行っていたありがちな活動とは逆の戦略を展開し始める。

この当時のアマチュアバンドの多くは、手作りのデモテープを販売することで活動資金を集め、それをもとに様々な地域でツアーと称し、長期的なライブ活動を行うことが定番になっていた。

こういったバンドが溢れる中、L'Arc〜en〜Cielはデモテープの販売を避け、あえて大阪からあまり動かず先々のライブ予定も発表しないスタンスをとっていた。

この当時の活動方針について、tetsuyaは「当時ね、周りの同じようなバンドはライブをいっぱいやってたんですよ。数をこなす、みたいな。

でも僕らは月1回に絞ってそれ以上はやらない、ツアーもやらない。で、大阪に観に来てもらう、東京からでも来てもらう…ぐらいの気持ちでやってました。」

「あと、他のバンドは先々のスケジュールまで発表しちゃうんですけど、そうじゃなくて次のライブは観に来た人に伝える。ライブに来て初めて、次いつどこでやるのかわかる。

逆に、来ないとわからない。次はいつ観られるかわからないっていう状況をあえて作りましたね」と語っている。

このようにライブの開催数を減らし、長期のスケジュールを発表しない戦略をとったことによって口コミが喚起され、動員数が増加していったとtetsuyaは当時を語っている。

なお、ライブを行った後はメンバー主導で音楽雑誌編集者に対し、公演の模様や動員数などの情報を送り、より外に話題を広げていくためのプロモーション施策を行っていた。

あえてデモテープを販売しなかった背景には、「ライブに来ないと(曲を)聴けない」「自分たちが納得できるタイミングで音源を出したい」というtetsuyaなりの考えがあったという。

そのため、L'Arc〜en〜Cielは結成してすぐにレーベルからの勧誘、あるいは「デモテープを販売しないか」という催促があったにもかかわらず、それらすべてを断っていた。

他にも、L'Arc〜en〜Cielはファンとの過度なコミュニケーションを一切行わないようにしていた。

また、ブランディングの観点から、メンバーが自作したチラシやフライヤーを直接配布しないようにしたり、会場に出入りする観客の前でメンバーが

演奏機材を運搬するといった行動を避けるため結成当初からローディーやスタッフを雇っていたという。

こういったイメージ作りについて、tetsuyaは、2022年にパーソナリティを務めるラジオ番組で

「最初からブランディングとして人気があるように見せた」「売れる前から徹底してやってたんですよ。"勘違いしてる"と言われようと」と話している。

1992年 L‘Arc~en~Cielからメンバーのhiro、peroの脱退

1992年3月にオリジナルのビデオ『L'Arc-en-Ciel』のプレゼントライブを大阪と東京で行い、関東地方にも活動拠点を広げるが、

6月12日の難波ロケッツで行われたライブをもってギタリストのhiroが脱退することになった。

脱退理由は、音楽性の違いやhydeと合わなかったからだとhydeの自叙伝『THE HYDE』で明らかになっている。

後任でtetsuyaと学生時代に親交のあったkenが加入。kenは6月25日の新宿ロフトで行われたライブでL'Arc〜en〜Cielとして初めてステージに立った。

 

ken加入直後からアルバム制作のためレコーディングを行い、1992年10月1日に発売されたオムニバスアルバム『Gimmick』にバンド初の音源となる「VOICE」を提供した。

しかし、完成直前まで制作されていたアルバム『Gimmick』だが、出来映えが気に入らなかったため、全曲をボツにし発売しない意向を取った。

これに関しては、脱退したhiro側から「自分の曲を使わないでほしい」と言われたことも理由の一つになっている。

この一件で当時所属していた事務所との間に軋轢が生まれ、レコーディングに掛かった経費などの支払いを命じられることとなる。

これとほぼ同時期に、デンジャークルー・レコード (現:マーヴェリック・ディー・シー・グループ) 社長の大石征裕から「うちの事務所に来て欲しい」と誘いがあり、デンジャークルー・レコードへ移籍。

そして、前事務所との金銭問題は、事務所間の話し合いで全て白紙となった。

ちなみに、インディーズ時代に唯一リリースされた1992年11月25日発売の生産限定シングル『Floods of tears/夜想花』は、金銭問題を処理する為にリリースされたものである。

 

また、この移籍の話が出たころにhydeがtetsuyaをバンドのリーダーにしようと提案し、tetsuyaがバンドのリーダーになった。

そして1992年12月30日に、大阪ミューズホールで行われたオールナイトライブをもってドラマーのperoが脱退することとなり、後任のドラマーを探すこととなった。

peroの脱退の理由はメンバー間で溝が生まれたからだという。

 

1993年からに続く↓

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